日本の刑法・刑事訴訟法・司法制度から言って、「統一教会→山上の母を狂わせる→山上が統一教会を呪う→統一教会とズブズブだった安倍を殺す」において、”安倍殺人罪”で酌量の余地はない
刑法では、因果関係はかなり重要視される
例えば、
「あいつが憎い!死んでほしい!」
と呪いをかけて藁人形を作って、その結果、偶然その対象者が死んだとしても、そこに因果関係は認定されないので、罪には問われない。
一方で、
山上が手製の銃を作り→安倍に発砲→安倍死亡
は明確な因果関係。
あとは、主観的な部分として、
故意かどうか
になる。
故意じゃないケースが、傷害致死、とかである。
ちなみに大分の八田與一はそこの「悪知恵」を使って、車でムカつくやつを轢き殺している。これだと、交通事故を装った「過失致死」的な論点に持っていける可能性があるからだ。
山上が故意で安倍を殺したのは明白である。
そして、責任能力も問題ないとなると、普通に殺人罪である。
原理的には、殺人の最高刑罰である死刑もあり得る。
ただ、日本の判例では、3人以上殺すとか、相当な悪質性がない限り、判例から言って無期懲役になるケースが多い。
厄介なのは、
「おかしな母を殺す」とか
「統一教会関係者を殺す」ではなく、
統一教会と政治的に関係が深かった安倍を殺す、という点だ。
これは、統一教会をめぐるその後の政治の展開を見ればわかるように、山上の狙いは成功した。
現実的に、この問題は明るみになった。
首相を殺さず、統一教会関係者を殺すだけなら、ここまで統一教会は追い込まれなかったかもしれない。
その意味で、山上の狙いはクリーンヒットした。
しかしながら、裁判の場においては、
「安倍が殺された」
のであって、安倍が被害者である。
安倍が殺されたということについて、因果もあって、故意もあって、動機が入り組んでいることがややこしい。
例えば、統一教会信者の中でも、
山上の家庭レベルほど狂っておらずそこそこ家庭をうまくまわしている人もいる
ため、
仮に統一教会の悪質性を認定するとしても、
「他の信者の過程ではそこまで発展してない」
ため、山上の母が狂っていただけじゃないか、という話にもなってきてしまう。
仮に、
- 統一教会は悪質
- 統一教会に影響を受けた母も狂わされた、あるいは母が異常者
としても、
この構図において
「安倍はどうなんだ?」
となってしまう。
しかも、最悪なことに、山上の母が裁判の場において、
めちゃくちゃな供述(明らかに狂ってる)
をしたため、どちらかというと「母がおかしい」ことが明るみになってしまった。
世論としては、山上擁護の風も吹き、その境遇に同情する動きもある。
政治に対する批判もある。
だが、司法のロジックでいうと
- 統一教会がおかしい
- 山上母がおかしい
とすると、殺された安倍は「殺されるほどか?」となってしまう。
さらに法哲学的レイヤーから補強できるポイントがある:
刑法における評価対象は
「行為責任」(what he did) であって
「境遇責任」(why he did) ではない→ 山上は行為責任で裁かれる。
→ 境遇責任は限定的に酌量要素として扱われるだけ。
つまり、刑法は“社会構造を裁くものではなく、個人の行為を裁くもの”
この軸を入れるとさらに論理は強固に。
===
![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() |
"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。



